阪神淡路大震災から23年

阪神淡路大震災から23年の今日、当時京都に住んでいて震災を体感した私の思いを書こうと思います。

まず最初に遺族の方々、今も生活に苦しんでいる方々の少しでも早い心の回復を祈っております。

当日の朝

震災は1月17日の早朝に起きました。ネットで調べたところ5時46分だったそうです。

当時小学生だった私は父親の仕事で京都市伏見区に住んでおりました。(北海道料理屋は祖父の家で、父親は全国転勤有りのサラリーマンです)

弟と二人並んで寝ていた私は、激しい横揺れを弟に揺すられていると思い布団に潜り込みました。

その部屋に両親が飛び込んで来た光景を今でもはっきりと覚えております。

両親が机の下に隠れろ!と言ったその直後、勉強机の上にあった全ての教科書が私たちの布団の上に雪崩れ落ちて来たのです。

楽しみにしていた誕生日会はなくなった・・・

その後の思い出は少し曖昧ですが、この日予定していた私の誕生日会は中止になりました。

1月17日生まれの私は小学校の友達を集めて自宅で行う誕生日会をとても楽しみにしていたのです。テレビでは倒壊した家屋、高速道路、火の上がった繁華街など想像もできないような光景が映し出されておりました。

学校は休校になり、しばらくは何も出来ないテレビの情報だけを見続ける時間が過ぎていきました。

私が住んでいた京都市伏見区は震度5ということもあり、周囲には震災の傷跡はありません。

ところが学校に登校してみると状況は違ったのです。

見慣れた学校が変わっていて事の重大性に気づく

校舎のありとあらゆる場所にヒビが入り、体育館は使用禁止になりました。プールも冬季で使用しておりませんでしたが、ヒビにより使用できないとの発表がありました。

小学生でしたが、いかに震災の影響が大きいかということをいつもの学校を見て気付いたのです。

やはり震度5の京都では自宅の大きな変化がなく、テレビで流れている光景もどこか遠くの事のように感じていたのです。小学生ですから遠出もした事ありませんし、震源地と京都の距離感もわかっていません。

しばらくして始まる支援物資

東日本大震災では義援金という形の支援が多く採用されましたが、当時の日本は支援物資という言葉が横行しておりました。

私の学校でも学校主導で「支援物資」を被災の中心地に送ろうという活動が始まったのです。

大人になった今、あの時の光景を覚えておりますがあれは間違いなく失敗策だったと思います。

教師が持って来たダンボールに小学生が自宅から持ち寄った物を入れるのですが、使わなくなった鉛筆、消しゴム、ボロボロの服、メモ帳やマジック・・・小学生が集められるものなどそんなもんです。

その箱が各教室から集まり、雑に入れられ内容も記載せずにガムテープで封をされる・・・

はたして被災地でそのような物が必要なのでしょうか?

当時は日本全国からこのようなダンボールが集まったと思います。膨大な仕分けを余儀なくされた方々は本当に大変だったと思います。小学生が集めるあの箱は正直、ゴミ箱です。

何かできる事をしようという考えはとても素晴らしいと思うのですが、やり方がまずかったと思います。

当時はインターネットも普及しておらず、個人が仕入れる情報は主にテレビでした。支援物資の仕分けが大変などという報道はされることもなく、人々は何でも良いから送ろうと押入れやタンスを漁ったはずです。

震災後しばらくしてからこの事は報道されました。そして東日本大震災では義援金という形の協力が大きな流れとなり、支援物資の数が減ったという事は良かったのかと思います。

支援物資は強力な物資を持っている人(大量の食料や水、薬品など)が行うべきもので個人レベルではあまり意味を持たないと私は思います。

その直後に引越しにて転校する

震災直後の春、私は父親の仕事で茨城県へ転校しました。

茨城の小学生達が興味を持ったのは関西から大震災を経験したやつが転校してきた。ということです。

特にいじめなどはなかったですが、どうだったか?どれくらい揺れたの?と質問責めにあいました。当時ニュースでは連日阪神大震災の話題ばかりやっていたのです。

その思い出が薄れかかった32歳の現在、東日本大地震関連のニュースで「福島出身の子供が他の地域でいじめられる。原因は放射能の感染」という内容をみました。鮮明に思い出したのは茨城に引越した時のあの好奇の目に晒される感覚です。自分は普通に生活して普通だと思っても、周りから見れば普通じゃない。本当に可哀想なことだと思います。特に福島出身の子供に関しては放射能という厄介な話題も付いてくるので、本当に複雑な気持ちになります。

放射能が感染るなど、根拠のない話も小学生は一人が言い出せば皆が信じ、それが全体の常識になってしまいます。下手をしたら周りの親も子供の言うことを信じ始めます。それは人格形成を決める大切な時期の小学生にとってあまりにも辛く、あってはならない状況ではないでしょうか?

私は茨城の皆から寄ってたかって質問責めにあう状況を思い出し、近年のニュースにひどく心を砕かれました。何も好き好んで被災したわけじゃない。

薄れかかった23年前の記憶から未来に繋げられること

この記事を書いていると、少しずつ当時の記憶が蘇ってきました。

やはり地震はこわいですし、揺れるだけではなくその後の建物などの倒壊はもっとこわい。そして最終的に自分が震災被害者として特別視されるのは別の意味でこわい。

23年目の今年、ブログに記事を書こうと思ったのは薄れていく記憶を書き留めるという意味だけでなく、自分の息子が幼稚園に入る今年、少しでも自分の体験を保護者として役立てればと考えたからです。

こうやって記事を書いているうちに考えることもできますし、これを読み返せばその時更に考えることが出来る。そういった機会を作る記事にしたかったのです。

今年もテレビからは多くの追悼番組や当時を探る番組が流れるでしょう。しかし当時の記録を読み解くのではなく、そこから何ができるのか?どう成長できるのか?ということに焦点を置いて生活しようと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。